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天別豊姫神社

あまわけとよひめじんじゃ


天別豊姫神社(アマワケトヨヒメジンジャ)は
「菅茶山」の墓地を出て国道313号を西に行った黄葉山(神辺城跡)の山麓。
JR神辺駅の東500mほどの黄葉山中腹に境内がある。

313号線の天別豊姫神社前交差点に
神辺駅東方向で、かつて神辺城が築かれた吉野山の北麓に鎮座。
境内入口は北西向き。
国道沿いに大きな鳥居が立ち、境内が見えている。境内は広く、池もある。
神辺平野の南端黄葉山神辺城跡を望む(右側木の立っている山)

祭神 豊玉姫命(トヨタマヒメノ ミコト)、
事代主命(コトシロヌシノ ミコト)、
速進雄命、
火之加具土神、
吉備津彦命など

神辺城のある黄葉山の南麓に鎮座している。
地元では、「神辺大明神」と呼ばれている。

春には桜、秋には紅葉と1年を通じて
訪れる者の目を楽しませる。

古来、福山市の神辺町・駅家町・新市町辺りまで
入江となっており、海であった。
この1帯に住んでいた漁民が豊漁を願って、
海神である豊玉姫命を祭ったのではないかといわれている。伝承によると、
現在の鎮座地である吉野山の東麓、
網付谷というところの荒磯岩上に磯神社として鎮座し、
後にさらに奥の地の小中山という地に遷座、
建武年中(1334~1335)に朝山次郎佐衛門尉景連が
黄葉山(吉野山)上に神辺城を築城した際、
城郭の守護神として現在の地に遷座したと言われている。
いつから天別豊姫神社と称するようになったのかは定かではない。
後に神辺大明神と呼ばれるようになり、明治2年に再び現在の社名に改称した。

社頭の鳥居からまっすぐ進むとまた鳥居があり、社務所。
石段を登り始め、横道があり境内社がある。
山の中腹に石垣があり、その上に社殿。

石垣の下には境内社の稲荷大明神が鎮座。
社殿のある石垣上の端の方にも境内社の皇神社。
社殿は大きい。

神辺町が1望でき、北西にはこの辺りの最高峰・蛇円山も見える。
元々の祭神は豊玉姫命であり、後に事代主命や速進雄命が合祀された。

さらに大正3年に
3月町内の古祠が合祀され、
火之加具土神と
吉備津彦命が祭神に
加わる。

豊玉姫命の父である
豊玉彦尊(トヨタマヒコノ ミコト)
[大綿津見命(オオワタツミノ ミコト)]を祀る
沼名前神社(福山市鞆町)や
夫である蘇羅比古(ソラヒコ)[彦火火出見尊(ヒコヒヒデミノ ミコト)]を祀る
蘇羅比古神社(庄原市)がある。

境内の拝殿・本殿がある所や、
境内社の稲荷大明神がある所からは、
神辺の町並が1望できる。

写真左上の1つ飛び出て高い山は蛇円山。

神辺平野の東南に位置する神辺は、
黄葉山麓に開けた城下町。
地名は天別豊姫神社に由来。
古代は、秀麗な山や巨木・岩石を神の依代として祀る
自然崇拝が主流で
黄葉山も、この神様の降臨する山、
すなわち神奈備山(かんなび)として地域の人々から信仰され、
神奈備(かんなび)から神辺の地名が生まれた。

878年(元慶2)頃創立。

鳥居をくぐると広い境内で、
境内左手に、神池があり、池の島に境内社の祠が2つ。
参道を進むと、もう1つの鳥居があり、
その後方に神門。

神門から階段を上ると、もう1つの門があり
門の左手、階段上に境内社の祠が2つ。

門をくぐって、参道階段をさらに登ると
階段の突き当たりで、参道は左右に分かれ、
右手にいくと、境内社の稲荷神社。
稲荷神社境内には、大きな拝殿と本殿の他に
小さな稲荷社の祠が、ずらっと並んでいる。

参道階段を左手に登ると、境内社があり、
本社の社殿、拝殿と本殿がある。


通称は、天別さん、あるいは豊姫さん。
明治以前は、神辺大明神とも称された神社。

創祀年代は不詳。
当地は、昔、穴海と呼ばれた入海であったといい、
穴海から穴国、穴郡となり、和銅6年より安那郡と記されるようになった。

伝承によると、その穴海の網付谷の荒磯岩上に
海神・豊玉姫命を磯神社として祀ったのが、当社の起源。
その後、網付谷の奥の小中山に遷り
建武年中、備後守朝山次郎左衛門尉景連が
黄葉山に築城した時に、城郭の守護神として、
黄葉山中腹の現在地に遷座したという。

元慶2年(878)従5位上を授与され
国司の崇敬篤く、
式内社・天別豊姫神社に比定されている古社で、
明治2年、神辺大明神から天別豊姫神社の古称に改称された。

参拝は、年末の休日の午後。
境内には西日が差し始めていた。

当社の神紋について、確証はないのだが
社殿前の用水桶に、3つ巴と剣花菱紋が刻まれていた。

祭神は豊玉姫命で、
神辺平野が穴海(あなのうみ)と呼ばれていた頃、
網付の漁民たちが海神の豊玉姫を荒磯の岩上に祀ったのが
最初だと云われている。
現在地に社殿ができたのは建武年間(1334-38)で、
備後の守護であった朝山景連が神辺城を築いたとき、
城の守護神として勧請した。
幕末から明治初年にかけての宮司鈴鹿秀満は、
国学者として知られている。

神辺に城が築かれたのは南北朝時代。
古代の山陽道は、元神辺平野の北縁を通っていた。
ところが中世の後期になると、
沿岸部の鞆・尾道が瀬戸内海の要港として繁栄し、
山陽道も神辺から南下して、
郷分・山手から松永湾岸の今津を通って尾道に抜けるようになった。

ここに山陽道の「道上城」として神辺城が築かれた。
伝承では、建武2年(1335)のこととされるが、
当時の備南の情勢からもう少し時代を下げたほうがよい。

さらに、神辺城に関しては、2段階の築城が考えられる。
黄葉山の北東麓には、古城の地名が残り、
低丘陵上に城跡の存在が伝えられている。
この古城には神辺城の出城として
戦国期の長田左京亮の名が伝えられているが、
初期の神辺城はこの古城山に位置していたといわれる。

神辺城が歴史上に本格的に登場するのは
戦国時代中期の天文年間である。

当時の城主山名理興は、
大内に味方し、備後南部の支配権を握るが、
のち尼子方に転じ、以後当城をめぐって在地の勢力と、
大内・尼子・毛利という名だたる
戦国大名がしのぎを削ることになる。
理興の登場によって、
神辺は備南の政治の中心になった。
史上有名な神辺合戦は、尼子氏に応じた山名理興に対して、
大内氏が総力を挙げて挑んだ戦いで、
合戦は神辺城の支城の攻防から始まり、
天文十7年(1548)6月には、
大内勢の総攻撃が決行され、
同十8年(1549)9月、
理興が城を捨てて出雲に逃走するまで、
足掛け7年にわたって繰り広げられた。

遊歩道が尽きるとそこは眺めの素晴らしい広場
広場から更に2の丸天守閣跡へと登る

その後、理興は許されて神辺に帰るが、
弘治3年(1557)春に病死し、
嗣子がなかったため山手銀山城主杉原盛重が毛利氏の支持を得て入城する。
以後当城は、毛利氏の有力な部将杉原氏の本拠として戦国大名毛利氏の1翼を担い、
天正十2年(1584)、
同氏が内訌によって毛利氏に討滅されて後は、
その直轄城として推移し、福島氏の時代を経て、
元和5年(1619)、備後十万石の大名として入って来た
水野勝成によって廃され、
その役割は新たに築かれた福山城に委ねられた。

城跡には、神辺歴史民俗資料館に登る道を利用する。
同館の駐車場から西へ200メートル登ると城跡西端に達する。
ここから神辺平野は1望の下だ。
散策道にそって登ると、
本丸跡にいたる。
かつてここには福山城に移された
3階櫓が威容を誇っていた。

※1「森本繁著“備後の歴史散歩”」
引用:「鞆の浦(福山市)」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
URL: http://ja.wikipedia.org

入場料無料
駐車約20台
電話084-962-5034
アクセスJR神辺駅・井原鉄道神辺駅から徒歩約5分。神辺城址登山口への道の途中にある。川北バス停から徒歩約1分。
住所広島県福山市神辺町川北142-2

素盞嗚神社

すさのおじんじゃ


素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、
広島県福山市新市町戸手にある神社。
線路と狭い道路に挟まれた、東西に長い境内。
東側の鳥居から、隋神門・舞殿・拝殿・幣殿・本殿と並んでいる。

当地は、江ノ熊・江隈・疫隈などとも呼ばれていた地で、
当社は、「備後国風土記」にある「疫隈國社」である。
蘇民将来伝説の発祥の地であり、全国祇園社のもと。

社殿左の境内社は、蘇民神社と疱瘡神社。
右には、天満宮がある。
天満宮は、明治までは本地堂と呼ばれ、聖観音を祀っていた。

式内社(小社)、備後国1宮を名乗り、旧社格は県社。
鳥居・隋神門をくぐり、長い参道を西へ進むと、舞殿がある。
舞殿後方に、拝殿・幣殿・本殿。
本殿は入母屋造。


素盞嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神とし、
稲田姫命、御子神の8王子を配祀する。

社伝によれば
天武天皇の治世であった西暦7世紀ごろに
創建したとされており、 
遣唐使であった吉備真備が唐から帰国した後の
天平6年 (734)に
備後から素盞嗚命を広峯神社に勧請したという。


『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された
『備後国風土記』逸文(奈良時代?)「蘇民将来」説話にある
「疫隈國社」とあるのは当社のことであるという。

延喜式神名帳には「須佐能袁能神社」と記載されている。
後に神仏習合によって天王寺という別当寺が作られ、
牛頭天王を祭神とするようになり、
天王社、祇園社、江熊祇園牛頭天王社などと
呼ばれるようになった。

明治の神仏分離により
祭神を素盞嗚尊に改め、
現在の社名に改称した。


普段は静かな神社であるが、
新市、相方、戸手、中須などの
1日4ケ村の氏子全員が1致協力して
年に1度行われるのが祇園祭典である。

この祭りは500年以上続くもので、
備後地区でも歴史と伝統があるうえに
大変にぎやかな祭りである。

毎年7月の第2もしくは第3の土日に開催されている。
3基の御輿のお旅山登御や、
神社境内での重ね会いの行事などの
神事が行われている。


境内には天満宮をお祀りしている本地堂がある。
これは江戸時代中期に再建されたもので、
祇園社(素盞鳴命奉祀神社)では
日本中で残っているのはここだけである。
また日本では僅かに20棟位と言われる
日光東照宮の鳴き龍がある。
また境内には戦国時代に近くにあった
相方城から移築されたという伝承があった
城門2門と櫓があったが、
そのうち櫓は1970年代に火災で焼失したが、
城門2つは現存する。


「古事記」「日本書紀」などの古典によれば
素盞嗚命は日本の国をお生みになった伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が
禊(みそぎ)をされた時にお生まれになり、
天照大御神、月読命の弟神にあたられます。
素盞嗚命は、父神伊邪那岐命から海の支配を
任ぜられたにもかかわらず、
お亡くなりになった母神伊邪那美命(いざなみのみこと)を
慕われ毎日泣いてばかりおられました。
その激しい泣き声は山を枯らし、
海や川を干上がらせてしまいました。
その後、神々の世界、高天原(たかまがはら)に上られた
素盞嗚命は、その激しい気性から乱暴なふるまいを
続けられたために、高天原の神々によって
この地上に追放されてしまわれたのです。

素盞嗚命は、これまでのお振る舞いを深く悔やまれ、
出雲国に降り立たれました。
そして、この国で暴れまわっていた
恐ろしい大蛇「8俣のおろち」から
人々を救うことを決意され、
英知を尽くし、苦闘を重ねた結果、
ついにこれを退治され、
平和な国を作り上げたのです。

後に、おろちから救われた
稲田比売をお妃(きさき)に迎えられ、
出雲国須賀の地に宮殿をお建てになりました。

8雲立つ 出雲8重垣 妻籠みに 8重垣作る その8重垣を

このとき、素盞嗚命は、
お妃を思うやさしい和歌をお詠みになり、
これが日本で最初の和歌といわれています。
ご気性が激しく、猛威を振るわれる神。
しかし、ご自身のお振る舞いを償われるため、
英知と勇気を持って困難を乗り越え人々を救われる、
雄々しく、やさしい神。
素盞嗚命は、とくに嵐や疫病を司り、
こうした災いから人々をお守りくださる
神としての御神徳はよく知られています。


備後風土記に(ふどき)の逸文によれば
北海にいた武塔神が、
南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、
当地で宿を求めた。
当地には、将来兄弟が居り、
弟の将来は豊かであったが、宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。

武塔神は、南海から8柱の御子を率いての帰路、
当地で、報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし、免れたという。
武塔神は、その時、「吾は速須佐雄の神なり」と名のったという。
これが今日伝わっている茅の輪くぐりの神事の起こりである。




引用:「素盞嗚神社(福山市)」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
URL: http://ja.wikipedia.org





アクセス福塩線 上戸手駅下車 徒歩3分
バス  寺岡記念病院前下車 徒歩5分
住所広島県福山市新市町大字戸手2-3

うをの里

うおのさと


鞆の浦の文化と伝統、
手作り体験のできる工場。
鞆の浦の伝統商品「手にぎり鯛ちくわ」をはじめ
「海老せんび」「のしいか」の体験が楽しめる。
鞆の浦ゆかりの芸術家の作品を展示する「とっとギャラリー」。
尾道ラーメンが食べれる「ついつい亭」がある。


●施設
うをの里職人館
ついつい亭・体験コーナー(手にぎり鯛ちくわ・せんべ屋・いか焼屋)
うをの里本店
うをの里直営店舗、職人館でつくったできたて・作りたての商品を販売
とっとギャラリー
展望台(東屋)
入場料無料
体験価格/鯛ちくわ1本200円~焼きせんべい600円
駐車有り
営業時間9:00~16:30
※体験コーナーは16:00まで
※飲食コーナーは11:00~15:00まで
入り口売店は 9:00~18:00まで
定休日 月曜日(※祝日の場合は翌日)
入り口売店は無休(元旦を除く)
電話084-982-3333
アクセスJR福山駅下車、「鞆行」バス乗車、「鞆バスセンター」下車。徒歩約15分
山陽自動車道福山東IC・福山西ICより約30分
住所広島県福山市鞆町後地1567-1

福山ばら祭り(福山バラ祭り)

ふくやまばらまつり(ふくやまバラまつり)


福山ばら祭りです。

2008年は晴天に恵まれ、
たくさんの人が訪れています。

メイン会場の緑町公園は
いつものように
屋台が軒を連ね、

メイン会場では
綺麗な歌声が響きます。

福山バラ祭りは
バラの多さと美しさもさることながら
ポイ捨てゴミの少なさ、
会場付近の不法駐車、
迷惑停車などが殆ど存在しない
参加者のモラルの高さも
特徴ではないでしょうか。

どこの地域にでも必ずある
祭りの最中での
怒鳴りあい、喧嘩、
迷惑停車のトラブルなどが
全く存在せず、
安心して祭りを堪能することができます。

咲き乱れるバラも美しく、
福山近郊の人はもちろん、
県外の人も
訪れるに値する楽しい祭りです。

---

歴史
1945年8月8日の福山大空襲の惨禍を悼み、
荒廃する街を憂いた福山市民有志が、
1956年に福山市御門町(現在の花園町)の空き地に
バラの苗約1000本を植え、
1956年5月に福山ばら会主催によって
バラ展示会を開催したことが福山ばら祭の起源である。

その後、当時の市長徳永豊の賛同により、
1957年に行政が都市公園としての
ばら公園の整備に着手した。

1968年には、ばら公園が美しい町づくり
全国コンクール最優秀賞を受賞し、
第1回福山ばら祭が開催された。
1985年4月には、福山市の市の花にばらが制定された。

また、1995年には、ばら公園に隣接する緑町公園に
大規模な第二ばら公園が開園した。
現在は、社団法人福山青年会議所・福山ばら会などを
中心とする福山祭委員会が福山ばら祭を主催している。

なお、福山ばら公園は、
2006年に大阪で開催された
世界バラ会連合主催による世界バラ会議にて
日本国内2例目の優秀ガーデン賞に選定された。

祭りの内容

福山市花園町のばら公園、
緑町の緑町公園、
中心部の商店街を中心にローズステージ、
ローズウェデング、ローズパレードなど
多彩なイベントが開かれる。

会場
主に福山市花園町、
緑町周辺がメイン会場となっている。
祭り期間前後には福山駅前、
商店街などいたるところに
約50万本以上のバラが咲き乱れる。

引用:「ばら祭り」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
URL: http://ja.wikipedia.org
入場料入場無料
駐車・第一特設駐車場 竹ヶ端運動公園多目的広場(福山市水呑町)
電話084-928-1042・1043
アクセスJR福山駅~バス5分(ばら公園)
住所福山市緑町2-2

花しょうぶ園

はなしょうぶえん


管理者 : 沼隈町観光協会
入館者数(年間) : 15、000人
期間 6月上旬~下旬、3月上旬~4月下旬

地域住民が手づくりで造った「花しょうぶ園」。
12000平方メートルの広大な敷地に約5百種、約5万本の花しょうぶが
鮮やかに咲き誇る。
近くに、軽食喫茶のできる平家の館(小宰相庵)がある。

植え込み作業はもちろん
散歩道や橋など
建物を除く全てが住民の手によって造られた。
6月には約500種の花しょうぶ、
約50、000本の花菖蒲を地元住民の手作業で植栽
3月上旬から4月下旬は椿が美しく咲く。


横倉地区は、平家伝説の残る情緒あふれる集落。
平通盛が花しょうぶにつかったという言い伝えが残る
この地域。
自生の菖蒲が多くあったことも手伝って、
昭和62年から観光協会と横倉地区で協力し、花しょうぶ
園を計画整備。
平成2年6月地元の横倉地区住民が中心となって開園。
平成3年 建設省「手造り郷土賞」受賞。


引用:『平家谷つばき園・花しょうぶ園HP』
引用:「鞆の浦(福山市)」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
URL: http://ja.wikipedia.org


入場料大人 500円  小・中学生 200円
駐車100台(無料)
営業時間9:00~17:00
休園:6月初旬~7月上旬 6月初旬~6月下旬
電話084-987-0328
平家谷ふるさと振興会 084-988-0178
アクセスJR山陽本線福山駅から鞆鉄バス上横倉行きで40分 終点上横倉下車 徒歩15分
福山駅から車で30分
住所〒720-0402 福山市沼隈町大字中山南1954-1

鞆町

ともちょう


鞆の浦は,
日本最古の歌集である「万葉集」に登場し,
瀬戸内の潮待ちの港として古くから栄えた町。

江戸時代には朝鮮通信使が寄港し,
国内ばかりでなく遠く大陸からの賓客をも持て成す迎賓都市。
江戸時代からの町並みや港の風景を残す町は,
年間100万人以上の観光客が訪れる観光地となっている。

昔ながらの鞆の町は
多くの人々を迎え入れるための機能が
十分に整備されておらず,
観光客の車は路上にあふれ,
狭い道路は渋滞,
散策する観光客だけでなく,
地元住民の生活の安全も
ままならない状況になっている。
歴史を伝える建築物も
日々傷みが増し,
保存のための施策が急務となっている。

鞆を再生するための整備を計画。
港の形状に沿って1部を埋立て,
新たな土地を創出して
道路や駐車場,
緑地を整備し,
フェリーターミナルや
漁業施設などの港の機能も整備する。
多くの人々が快適に鞆を訪れ,
満喫できるような『迎賓都市』の創造を目指す。

鞆の町は,
人口の減少,著しい高齢化,産業の低迷など,
多くの課題を抱えており、
生活する人々の安全性や快適性を確保して
住みやすい町にすると共に
町の活性化のためにも最善の計画であり
鞆の住民の大多数が支持している。

ただし、整備を行えば,港の景観の1部を変える
こととなる。
さらに福山市民より尾道の人間に
利益の多い変革となっており、負担は
福山市の税金で行われるなど
鞆以外の福山市民にはおおむね不評だ。


位置と自然

鞆は,瀬戸内海に突き出た沼隈(ぬまくま)半島の
東南端に位置。
背後には急峻な山々が海岸まで迫り、
わずかな平地に家々が軒を連ねて建ち並ぶ。
鞆は瀬戸内海のほぼ中央に位置するため、
古くから潮待ちの港として栄える。
東は紀伊水道から,西は豊後水道からの
満ち潮は鞆の沖合いでぶつかる。
その潮に乗って、船は鞆の港へ入り、
引き潮に乗って再び船出する。
仙酔島(せんすいじま)、大可島(たいがしま)、
玉津島(たまつしま)などの島々が防波堤となり、
天然の良港であった。
仙酔島は、古くは向江島とも呼ばれ、
名勝「鞆公園」の中心を成しています。
島内には、広島県天然記念物の「仙酔島の海食洞」や
「仙酔層と岩脈」などが見られ、
探索のための遊歩道も設けられています。

古代から中世

発掘調査によって、
縄文土器や弥生土器の破片が出土してるが、
鞆が文献に最初に登場するのは『万葉集』。
730(天平2)年に
大伴旅人(おおとものたびと)が
鞆の浦のむろの木を歌い、
736(天平8)年には
遣新羅使(けんしらぎし)がやはり
むろの木を歌っている。
927(延喜7)年に編纂された延喜式には、
沼名前(ぬなくま)神社が式内社として
記録されている。
源平合戦(1180~1185)の頃には、
奴可(ぬか)入道西寂や鞆6郎の名が知られる。
『長門本平家物語』には、
鞆の浦で兵船を整えたという記述があり、
平安時代末期の鞆の浦は
確実に港としての機能を有し、
港町も形成されつつあった。
南北朝時代の鞆の浦は、
足利尊氏が、9州下向途中の1336(建武3)年に、
光厳(こうごん)上皇の院宣を受け取った場所として
重要視される。
『梅松論(ばいしょうろん)』によると、
この院宣によって尊氏は朝敵の汚名を返上でき、
その気勢は大いに上がったという。

さっそく9州の大友氏泰に対して、
鎮西に向けて出発することを申し送っている。
このためか、
後に尊氏は鞆の浦の金宝寺を
備後安国寺と定めています。

尊氏は,またたく間に9州全体を勢力下に治めると、
京都に攻め上がる最後の軍議を鞆の浦で行い、
海陸2手に分かれて進軍する決定を下しています。
鞆の浦での南北朝の戦いは、
大可島、小松寺などを舞台に繰り広げられ、
鞆の浦が両者の戦いの重要な拠点だったことを示している。
1349(貞和5)年には、
足利直冬(ただふゆ)が中国探題として大可島城に入り、
短期間ですが鞆の浦は中国地方8か国の政治の中心となった。
室町時代後半になると、
備後地方の国人は、
大内氏と尼子氏との対立の狭間で去就に迷い、
その間隙をぬって台頭した毛利氏の旗下に服することになる。
大内氏、尼子氏を倒して中国地方の覇者となった
毛利氏も、鞆の浦を重要視し、鞆城を築く。

室町幕府の最後の将軍、
足利義昭(よしあき)は
1573(天正元)年に織田信長によって京都を追われる。
毛利氏を頼った義昭は、1576(天正4)年に鞆城に入り、
信長包囲網を築くために画策するが、
秀吉と講和を結ぶことによって、
幕府再興の夢はついえる。
「足利氏は鞆に興り、鞆に亡ぶ」と言われるゆえんです。


江戸時代になると、安芸・備後の領主として
福島正則が入部する。
正則は城山に支城として鞆城を再築するが、
1615(元和元)の1国1城令にさきがけて
1609(慶長14)年に廃城。

福島氏が1619(元和5)に改易になると、
譜代大名の水野勝成(かつなり)が
大和郡山から転封する。
勝成は、まず神辺城へ入って
福山城の完成を待つが
鞆も重要な拠点であり
2代勝俊(かつとし)は藩主になるまで
鞆城跡の屋敷に居住していた。

1639(寛永16)年に
勝俊が家督を継いだ後は、
荻野新右衛門(おぎのしんうえもん)に
屋敷と町中を預けて支配させた。
これが鞆奉行の最初と言われています。


このように、水野時代の初期には
城下町的色彩が残っていたが、
勝俊が鞆を離れてからは、
次第に港町の性格が強まり、
鞆の津と呼ばれるようになる。

もともと鞆は港町として繁栄した町で、
1650(慶安3)の祇園宮鐘銘には
「古来商旅貿易之地也」と記されている。

1672(寛文12)年,
河村瑞軒による西回り航路の整備以後は、
北前船や9州船が鞆の津に寄港し、
鞆商業は著しい発展を示す。

鞆の津は海駅としても
重要な位置を占めていた。
特に朝鮮通信使の寄港に伴う接待は、
藩の総力をあげて行われた。

計12回の来日の内、
1811(文化8)年、対馬で引き返した使節を除くと、
往き帰りすべて鞆の津に寄港している。

正使・副使・従事の3使の宿泊所には、
慣例として福禅寺が当てられた。

1711(正徳元)年の従事李邦彦(イパンオン)は、
対潮楼からの眺めを絶賛し「日東第1形勝」の書を残した。


参勤交代の西国大名やオランダ商館長、
琉球使節なども鞆の津に来航し、
活気のある町の様子や、
裕福そうな商家が軒をならべている様、
そして遊郭や寺院についても日記などに書き残している。

港町、商業都市として発展した鞆の津には、
大型船が次々と出入りするようになり、
港湾施設も整備されていく。

幕末には、
尊皇攘夷を唱える3条実美(さねとみ)ら7卿が、
1863(文久3)年8月18日の政変後、
長州に下る途次、
鞆の津に立ち寄る。


鞆の港は、古代・中世の鞆の浦から
近世の鞆の津へと、
その地理的、自然的条件を生かし、
さらに人工の手を加えながら、
瀬戸内の要港として発展してきた。


主な行事

お弓神事  新年の平穏を祈る破魔矢が変化した行事です。福山市無形文化財指定。
沼名前神社・旧暦1/7に近い日曜日

鞆・町並ひな祭り  鞆の浦の街中が雛人形1色に。江戸時代から代々伝わる雛飾りを公開。
鞆の浦全域・2/中旬~3/下旬

鞆の浦観光鯛網  船団を組んで桜鯛の群れを1網打尽にする勇壮な漁法。様々なイベント
仙酔島・国民宿舎前・5/上~下旬

鞆の浦弁天島花火大会  海上に映える美しいイルミネーション。日本1早い花火大会です。
仙酔島・7/下旬~8/中旬

芽の輪神事  芽の輪をくぐると罪や穢れ、厄災疫病を防ぐと言われています。
沼名前神社・6/30

お手火まつり(おてびまつり)日本3大火祭りのひとつ。赤々と燃えさかる巨大な松明。鞆の夏を彩る祭り.

8朔の馬だし(はっさくのうまだし)大小10台の8朔の馬を鞆の街中を引き回します。太鼓の音が鳴り響きます。
鞆の浦全域・8/下旬~9/上旬の日曜日

仙酔島の海水浴場  鞆の浦から渡船で5分。仙酔島の海水浴場の夏開き。
仙酔島・7/下旬~8/中旬
渡守神社・旧暦6/7に近い土曜日


名物

チョウサイ(長歳)
引き回される山車のこと。鞆の浦の秋の1大祭り。
サヨリの1夜干し
鞆の浦名物・針魚の1夜干し。


引用:「鞆の浦(福山市)」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
URL: http://ja.wikipedia.org

アクセスJR山陽本線「福山駅」から「鞆の浦行」の鞆鉄バス約20分「鞆の浦」
住所広島県福山市鞆町

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